〜離陸までのJET〜


ケイビングは究極のアウトドアスポーツだ。しかし、現在、日本に居ながらケイビングに出会える機会は少ない。JETの隊長・吉田勝次(1966年生まれ) はケイビングに出会えただけでなく、すばらしい探検仲間たちにも恵まれたラッキーガイだ。

1994年、吉田勝次はまだJETの誕生を予測するすべもなかった。 吉田隊長が登山をはじめてから5年が過ぎようとしていた。ありあまるパワーを持て余し、彼は登山というジャンルの中でも特にハードな冬山やクライミングの世界を追求していた。 彼が求めていたのは、まだ見ぬ世界を前にしたときの「ときめき」だった。しかし、ほとんどの山は行きつくされていることに気づいた吉田隊長は、地球上には自力で行ける未知、未踏の世界は地底の世界以外ないと思い始めていた。 子供の頃、見ていたテレビ番組の1シーンを鮮明に思い起こす。探検隊がどんどん奥へ入っていくスリリングな映像が、観光鍾乳洞内のライトアップされていない通路に重なった。

1994年夏、吉田隊長はあるアウトドア雑誌のある記事に目を奪われた。そこには浜松ケイビングクラブの洞窟探検についての記事が載っていた。 それを見た2秒後、吉田隊長は記事の中にあった電話番号に電話して、さっそくその週末にあこがれの洞窟探検へ連れて行ってもらう約束を取り付ける。多くの探検者と同様、吉田隊長の決断と行動はとても素早い。 これが、浜松ケイビングクラブの会長である竹内氏と稲垣氏との出会いだった。それからというのもの吉田隊長は、洞窟探検のイロハを教わるために毎週末を浜松で過ごした。

浜松ケイビングクラブに参加するようになった同じ頃、吉田隊長は東海地方でケイビングフェスティバルが開催されることを知る。 ケイビングフェスティバルとは、日本全国の洞窟研究者やケイバーが情報交換や技術の向上を目的に集まる一大イベントだ。 その年の受け入れ団体は浜松ケイビングクラブ。吉田隊長はさっそく実行委員となった。しかし、全国から集まる洞窟関係者のために、 一週間の泊まりこみ作業、準備、運営とあわただしく、右も左も誰が誰なのかもまったくわからないまま閉会してしまったらしい。
隊長が大事にしている実行委員の名札。 ケイビングフェスティバル実行委員テントの様子。 借りてきたネコのような当時の隊長。


その後も、浜松へ熱心に通う吉田隊長に、浜松ケイビングクラブの会長である竹内氏が運命的な助言をする。 竹内氏は、三重、岐阜、滋賀に、ほとんど手付かずのフィールドがたくさんあると言うのだ。探求心旺盛な吉田隊長はそっちでの活動を勧められる。 それから、吉田隊長の単独でのやぶこぎの日々が続いた。 まだ地元での探検仲間に出会っていなかった彼は、単独で洞窟へ行くのが当たり前になっていた。地元の山岳会に所属していた吉田隊長にとって、新洞探査のために山中を歩き回る「やぶこぎ」に体力的な問題はなかった。 しかし、1993年登山中に遭難事故を起こした経験のある吉田隊長は仲間の必要性を痛いほど感じていた。

そんなあるとき、浜松ケイビングクラブの竹内氏から名古屋に元気な大学生がいると聞き、及川元(はじめ)を紹介される。それは正に運命の出会いだった。 吉田隊長の超人的な体力とバイタリティに共振しつつ、一般社会を逸脱していた吉田隊長にブレーキをかけられるのは及川元だけだったのだ。 当時、失恋したばかりの大学生だった及川の口癖は「1年中、夏休みですから」だった。しかし、そのあと無期限の夏休みが訪れるとは及川自身も予測していなかっただろう。 二人は自宅が近いこともあって、周りから怪しまれるほど、来る日も来る日もいっしょに山の中を這いずりまわっていた。知られている洞窟へは行かず、活動のほとんどが新洞探査に費やされたのだ。 竹内氏が言っていた新洞発見の感動を体感するため、休みのすべては山のなかにいることになっていた。
穴の外、山の中、穴の中で、いつも一緒の二人がいた


並はずれたパワーの行き場を洞窟に求めていた二人が出会ったことによって、その力は何倍にもふくらんでいた。これがJETの母体になるのにそれほど時間はかからなかった。パワーだけで勝負していた二人に、浜松の稲垣氏が加わり、知識と経験が補われた。 稲垣氏は当時、白いジーパンをはきこなすお洒落な青年だったが、なりふりかまわず洞窟探検を追及するうち、やぶれたTシャツとアヤシイ髭がトレードマークになっていった。さらに頭髪の後退が進むにつれ、「JETの仙人」という呼び名が定着した。 こうして、JETはさらなるパワーハード?な活動へとスキルアップされていったのだ。パワーと頭脳がタッグを組み、無敵に思われた三人だが、計画性や持続性は皆無だった。このままでは三人は山の中を駆け回るだけで一生を終えていただろう。
ヒゲを生やす前の稲垣氏。
貴重な一枚。
JETになる前の隊長、
及川、稲垣氏と竹内さん


JETが誕生するきっかけは意外なところにあった。
1995年、英会話を習得するため吉田隊長は駅前留学する。(吉田隊長の好奇心はとどまるところを知らないのだ)そこで、担任の先生になったのが怪しい講師・葉山であった。 このときすでに彼は少し太っていて、吉田隊長は少し心配になるが、本人の強い意思もあって洞窟に行く約束をする。ハイキング気分でテニスシューズを履いて行ったのが葉山の洞窟デビューだった。その後何度もつらい目に遭いながらも洞窟の楽しさに目覚める葉山。 そんな彼を、吉田隊長はあちこち連れて回り、仲間として鍛える。なぜかロッククライミングの練習になり60mの壁にへばりつくこともあった。 葉山は持ち前のコミュニケーション能力を活かして、体験ケイビングを開催してメンバーを順調に増やし、ケイビング界にJETの名をとどろかせる。 このあと、彼は年々大きくなっていきJETのヘビーな人物になっていくことになる。

吉田隊長、及川(特攻隊長)、稲垣(顧問)、葉山(事務局長)とそろったところで、チーム名を考えようということになり、どうせなら大きい名前で、なおかつ覚え易いものを、などいろんな意見があった。しかし、JETというチーム名にはそれほど意味はない。先にJ.E.Tという文字がきまってそのあとにJapan, Exploration, Teamが当てはめられたのだ。 名前の候補に上がらなかったものには「泥芋虫、マッドスクワーム、友情などなど」があったが、センスのないものはすべて却下された。

いつまでも 大人になれない、社会の落ちこぼれたちが集まって出来たJET. 自己満足かもしれないが、それぞれが固い絆?で結ばれた仲間たちだ。 創立メンバーの開拓者魂に倣い、JETは自分たちの価値観を大切にしてこれからも未開の地に足を運び、未知の世界を発見して探検していくでしょう。 今日も明日も、雨の日も雪の日も、垂直の岩壁だろうが水の中だろうが、ハチャメチャな4人旅は続く。 台風のように新しい仲間を取りこみながら…どんどん大きくなっていく。
あなたにもJETが飛び立つところが見えるはずだ。

To be continued...